ベビーカーを買わなければならない、とわかった日、ケンは楽器屋のサイトを閉じた。
第1章:俺の優先順位
ケン、28歳。下北沢を拠点に活動するバンドマンだ。ボーカルとギターを担当している。月の収入は不安定で、ライブのブッキングが良い月は手取り20万を超えるが、悪い月は8万にも満たない。妻の彩花はカフェのパートで週4日働いていて、それで家計のベースを支えている。
子どもが生まれたのは1年前だ。息子の名前はソウ。よく笑い、よく泣く。ケンは父親になって初めて、「毎月決まった額が口座に入ること」の重要性を知った。
産院から退院した日、義母が使っていたベビーカーを譲り受けた。ブランドは不明。重量は体感で8kg以上。畳んでも場所を取る。玄関が狭いアパートに押し込むと、靴を脱ぐスペースがなくなった。とりあえず動くから使っていたが、ソウが歩き始めた今も手放せていない。問題は、このベビーカーを持ってライブハウスに行けないことだ。
第2章:楽屋に入らない
ケンのバンドは月に2〜3本、下北沢や高円寺のライブハウスでライブをする。彩花もソウを連れて来ることがある。問題はその後だ。打ち上げや機材の積み込みをしている間、ソウをどこに連れていくか。楽屋に置いておきたいのだが、義母のベビーカーが楽屋のドアを通らない。幅が広すぎる。
そもそも、このベビーカーで電車に乗るのがしんどい。畳んでも嵩張るし、重い。下北沢駅の階段を降りるとき、ケンは毎回「これギターアンプより重くないか」と思う。マーシャルのスタック持ち歩いてる感覚だ。音楽機材には金を使うのに、移動に使う道具がこれでは話にならない。
新しいベビーカーを買おうと思い立ち、ネットで調べ始めた。そして最初に目に入った価格帯を見て、画面を閉じた。
10万。Bugaboo。Cybex。Stokke。並んでいる数字がおかしい。ギターが2本買える。エフェクターボードが組める。俺が組んでいるペダルボードは全部で7万円だ。それより高いベビーカーが「スタンダード」として紹介されている。何かがおかしい。
第3章:ブランド料への怒り
育児界隈の価格設定は、音楽業界に似ていると思った。ブランドに乗っかった値段が幅を利かせていて、「本当に必要な機能」と「金を払わせるための演出」が混在している。ケンはそういうものが苦手だ。高いギターが良いギターとは限らない。それはベビーカーも同じはずだ。
徹底的に調べた。調べるのは得意だ。機材選びと同じ感覚でやれば良い。
まず「本当に必要な機能」を洗い出した。軽いこと。折り畳んだときにコンパクトなこと。電車に乗れること。改札を通れること。ライブハウスの楽屋に入れること。それだけだ。対面機能も不要。豪華なサスペンションも不要。ソウはもう1歳で、段差さえなければどこでも歩く。ベビーカーはサポート役でいい。
その条件で絞り込んでいくと、Joie AirSkip Lightという機種に行き着いた。英国のブランド。定価21,780円。重量4.25kg。全幅47cm。
第4章:2万円の正体
Joie(ジョイー)は英国発祥のブランドで、アジア圏を主要マーケットとして展開している。いわゆる高級ブランドではない。「手頃な価格で実用的なものを作る」という方向性が、製品の設計から伝わってくる。
AirSkip Lightを実物で見たくて、下北沢の赤ちゃん本舗に行った。展示してあった個体を折り畳んでみた。軽い。4.25kgという数字が体感でわかった。畳んだサイズは幅47cm、奥行き30cm台。これなら楽屋に入る。間違いなく入る。
ストラップが付属しているのも確認した。肩に掛けて背負える。ギターケースと同じように。ケンは「これだ」と思った。音楽やっている人間が設計したんじゃないかと思うくらい、持ち運びの発想が正しかった。
フレームを触った。軽量アルミだ。溶接の仕上がりはそれなりで、高級機のような滑らかさはない。タイヤも小さく、路面の質感が手に伝わりやすい。長く使えばどこかにガタが来るかもしれない。でも、それでいい。消耗品として割り切れる価格帯だ。3年間の実質月額を計算したら、466円だった。コーヒー1杯にも満たない。
第5章:楽屋に入った日
購入して最初のライブは、下北沢のSHELTERだった。彩花がソウを連れて来た。ライブ後、ケンは楽屋のドアを開けてAirSkip Lightを押し込んだ。入った。すんなり入った。バンドメンバーの誰も邪魔にならなかった。
ソウは楽屋の床に座って、ドラムのスティックケースを興味深そうに眺めていた。彩花はビールを飲んでいた。ケンはその光景を見て、「これが正解だった」と思った。
10万のベビーカーを買っていたら、楽屋に入れなかった。重くて電車が辛かった。そういう場面をいくつも諦めていたかもしれない。2万円という数字は「安い」のではなく「正しいサイズ感の価格」だったのだ。
ブランドに乗せられる必要はない。機能を買え。そういうことを、ケンはずっと楽器で学んできた。ベビーカーも同じだった。
【本日の生存戦略物資】
Joie(ジョイー) AirSkip Light(エアースキップ ライト)
定価:¥21,780 メルカリ相場(美品):¥5,000 リセール率:23%(独自調査)
実質月額(3年):¥466 全幅:47.0cm(改札判定:SAFE) 重量:4.25kg
① 総評(Verdict):月466円で下北沢の楽屋に入れる。ブランド料を払いたくない人間のための、正しい価格設定。機能で選べばここに辿り着く。
② 機能的勝因(Hidden Spec):付属のショルダーストラップで肩掛け背負いが可能。ギターケースと同じ感覚で持ち運べる。電車の棚に乗せられるサイズ感は、軽量機の中でも最上位クラス。
③ 所有の美学(Pride):「安い」と「正しい」は違う。ケンが選んだのは妥協ではなく、自分の文脈に最適化された道具だ。ブランドに踊らされない目を持つ人間だけが、この価格に辿り着ける。

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